扉を開ければ、そこには見慣れた笑顔。
 兄とふたり、そのひとの前に並ぶ。と、そこまではスムーズだったのだけれど。
「ほら、アル」
「えー、さっき兄ちゃんからって言ったじゃない」
「いいから」
「ずるいよ兄ちゃん」
 お互い両手を後ろにやったまま、ボクたちはこそこそと言葉を交わす。
 肘でつつき合うボクたちを、笑顔のまま楽しそうに眺めるひと。
 
「ああもう、わかったよ、オレから!」
 先にしびれを切らすのは、やっぱり兄の方。
 真っ赤な顔で、持っていた包みをそのひとへと勢いよく差し出して。
 
「かあさん、いつもありがと! 大好き!」
「ボクも大好きだよ!」
 
 続いたボクの顔も、負けないくらい赤かったはずだ。
 
 
「ありがとう、エドワード。ありがとう、アルフォンス。……大好きよ」
 
 そう言って、ふたつの包みごと、そのひと───母は、ボクたちを抱きしめてくれた。
 
 身体全体で感じる母は、柔らかくて、大きくて、暖かくて。
 
 
 ───それは、今はもう、遠い記憶。
 
 
 
『Sweet Memories』
 
 
 
 目の前の光景に、ボクたちは正直面食らっていた。
 ここは、東方司令部。東部地方を統括する、この国の権力たる軍部の中枢施設。常時軍服に身を固めた武人たちが行き交い、事件や事故の処理に騒然としていて、特に現場司令官たるロイ・マスタング大佐の執務室のあたりなどはいつ来ても……。
「何。この派手派手しい山は」
「……ほんと」
 ぼそっとつぶやいた兄の言葉に思わず同意する。
 ───いつ来ても処理待ちの書類であふれ返っていたはずのそこには今、違うものがあふれていた。
 赤青ピンク。色とりどりの紙とリボンに包まれた物体。
 それらが、その部屋の至るところに積まれている。大きな執務机の上。脇。後ろ。応接セットのソファ、テーブル。
「あなたたち、この時期に来るの初めてだったわね、そういえば」
 扉を開けてくれたホークアイ中尉が、そう言って苦笑した。
「この時期? なんかあったっけ?」
 首をひねりながら、兄が室内に足を踏み入れる。続いてボクも入り口をくぐり抜けた。
「相変わらず挨拶は無しなのかい、鋼の」
 ため息交じりの声は、カラフルな山の向こうから聞こえてきた。
「あれ、いたんだ大佐。いつも通り脱走してんのかと思った」
「そうしたいのはやまやまなんだがね」
 正面にあるひときわ大きな山の向こうに、部屋の主、マスタング大佐は座っていた。近づいてみると、彼の周りにいつも通りの書類の山ができているのがわかる。……というか。
「……とりあえず、それ、締め切りいつ?」
「こっちとこっちは今日。それは明日。あっちもそうね。これは本当は昨日よ」
 大佐は、紙の山に閉じ込められていた。目の前の山から一枚取り、ざっと目を通してサインを書き、右隣の山の上に重ねる、その動作に必要なスペースしか、そこには存在していない。さらにその外側を、包みの大群がこれでもかとばかりに取り囲んでいる。
 肩を落として機械的に作業を進める大佐と、兄の言葉にわざわざ指さしながら答えてくれる、おそらくそれを実行したであろう中尉の姿を何度か見比べて。
 
「……自業自得じゃん」
「……だね」
 
 ボクたちはあっさりその光景に背を向けたのだった。
 
 
 
― ◇ ―
 
 
 
 
「はい、エドワード君。アルフォンス君もね」
 移動した休憩室で、中尉がお茶と一緒に差し出してくれたのは、綺麗にラッピングされた小さな箱だった。
「……何それ?」
 大佐の部屋に積まれていたのと同じようなそれを一瞥して、兄がひょいと首を傾げる。
「何って…」
 箱をテーブルに置いた中尉が、お盆を抱えて苦笑している。
「もしかして、リゼンブールではなかったの? バレンタイン、なのだけど」
「……バレンタイン?」
「そう。やっぱり知らない?」
「いや、知ってるけど」
「いえ、知ってますけど」
 同時に答えて、ボクたちは顔を見合わせた。
「ああ、そうか、そうだっけ……忘れてたな、アル」
「そうだね、兄さん」
 バレンタイン。母が死んでから、縁がなくなっていた言葉。
「でもさ、そのバレンタインで、何で中尉がオレたちにくれるの?」
「だよねえ」
「……どうやら、彼らと我々との認識には相違があるようですな」
 不意に割り込んできたのは、ファルマン准尉だった。
「バレンタイン。かつて、とある国で反逆の罪に問われて処刑された神父の名。結婚を禁ずる政策に逆らい愛し合う若者たちの式を執り行っていた彼を偲び、彼の命日に愛を告げるのが習慣として広まったという」
「あ、由来とかそーゆーのはどうでもいい」
 まるで書類を読み上げているかのように淀みない准尉の声を、兄はすっぱりと遮る。
 続く中尉の言葉も、けっこう容赦なかった。
「そうね、私もどうでもいいのだけれど。でも、認識が違うというのは確かね」
「そうみたい。オレたちのバレンタインっていったら、母さんだったし」
 なあ、と兄が見上げてくるのに、ボクもそうだね、と頷く。
「お母さん?」
「そ、母さん。ウインリィだと、おじさんとおばさん、ばっちゃんもかな。毎年3人で駅前のフレドの店にチョコ買いに行ってたな」
「あそこって、ラッピング1種類しかなかったよね。で、男がピンクのリボンなんて持ってられるかって兄さん、いつもお腹に隠して帰ってた」
「うっせえ」
 がつん。軽く脛を蹴られた。
 ボクたちの説明を聞いていた中尉が、納得したという様子でテーブルの上に視線を落とした。
「なるほど、子供から親へのプレゼント、というわけね」
「というか、家族に日頃の感謝と変わらぬ親愛を言葉と共に、って感じですね。兄さん、毎年照れちゃって大変だったんですよ」
「アル!」
 また蹴られた。さっきより強く。金髪から覗く兄の耳が赤くなっているのが見えて、ほんと照れ屋だよなあと思う。
「にしちゃあ、モノがチョコ、と。なんか面白い感じに混ざってんな、それ」
 よう、と軽く手を上げながら、ハボック少尉が会話に混ざってきた。
「俺が聞いたことあるやつだと、そのパターンはほとんど花だったけどな。あとはカードとか。チョコの場合は大抵ここと一緒だな」
「ここ?」
「ここって?」
 揃って首を傾げたボクたちを見て、少尉はにやりと笑う。
 
「オンナノコからの愛の告白」
 
 ───え?
 
 
 
― ◇ ―
 
 
 
 
「ったく少尉のやつ」
「もう、乱暴だよ兄さん」
 ベッドサイドにどかっとトランクを放り出す兄を、ボクは慌ててたしなめた。
 ここの床板は、弱くはないけど音が良く響く。
「あー悪い。しっかしさあ、思いっきりあせっちまったじゃねーか」
「……そうだね、びっくりした。まさか中尉が、ってボクも思っちゃったもの」
 
『ちゅ、ちゅちゅ中尉? これってこれってそーゆー意味?』
『まさかですよね中尉? ボクたち子供ですよ?』
 パニックを起こすボクたちを見て、ハボック少尉は大笑いしていた。
『落ち着いて、ふたりとも。少尉、笑ってないできちんと説明してあげなさい……ハボック少尉?』
 中尉の愛銃の音でぴたっと止まったが。
 その、少尉曰く。
 イーストシティでのバレンタインには、本命チョコと義理チョコというものがあって。
 本命チョコは、最初に少尉が言ったとおり愛の告白。
 義理チョコは、ボクたちと同じような感謝とか親愛の意味だったり、単なる仕事上の付き合いの一環だったり。
『付き合い? ……なんか意味なさそうだよな、それ。やる方も貰う方も、嬉しいのか?』
『……そうね』
 
 いつもの宿の、硬いと兄が評するベッド。その上にごろんとひっくり返りながら、兄はくくっと小さく笑った。
「あの部屋の山は、どっちなんだろーなー?」
「本命なんじゃない? 大佐、女の人にもてるから」
 その後もう一度顔を出した執務室は、さらにすごい状態になっていた。
 一緒に覗いた少尉が、何気なく山から包みを取って裏を見た後、何故かどよんとした空気を纏って戻っていったのが印象的だった。
「もてる、ねえ。あーんな無能サボリ魔の、どこがいいんだか」
「また兄さんてば」
 毒舌に思わず苦笑する。大佐がらみの話題に対して発揮される兄のそれは、既に条件反射だ。
 コートのまま転がっている兄に軽く注意して、ボクは手元に目をやった。
 鎧の手にはずいぶんと小さな紙の包み。
『それに比べると、あなたたちのバレンタイン、素敵ね。───いつもありがとう、エドワード君、アルフォンス君』
 そう言って、もう一度差し出してくれた中尉のチョコ。
「言われたのって初めてだよね」
「……そうだな」
 ボクの言葉に相槌をうつ兄は、天井をぼうっと眺めている。
 たぶん、思い出しているんだろう。あの、今はもう遠い光景を。母の感触を。
 
 ───それは、鎧の自分には、ほんとうに遠い、遠い記憶。
 
 
 
― ◇ ―
 
 
 
 
 部屋に戻ってみると、兄は変わらぬ姿勢でベッドに転がっていた。
 だから、寝ているのかと思ったのだけど、
「アル?」
 すぐ反応したところを見ると、そうではなかったらしい。
「兄さん、まだコート着っぱなし。いい加減脱ぎなよ」
「んー」
 扉を閉めながら言うと、兄はかったるそうに起き上がった。のろのろと赤い生地を引き剥がし、放置されているトランクの上に放る。
 それから、くん、と鼻をひくつかせた。
「……甘い」
「おかみさんに頼んで、ちょっとだけ厨房借りたんだ」
 応えるボクの手には、マグカップがひとつ。
 中身は、こげ茶色のとろりとした液体。表面からは、ほわほわと湯気があがっている。
 
 ───儀式の後、母はいつもホットチョコレートを作ってくれた。
 贈ったチョコとたっぷりのミルクで作られた、暖かくて甘い飲み物を、三人でゆっくりとすする。
 それは、ボクたちのもうひとつの楽しみだった。
 
 手渡したそれを、兄はしばらく見つめていた。
「どうしたの、兄さん。早く飲まないと、冷めちゃうよ?」
 無言でカップを持ったまま立ち上がる兄の意図が掴めず、ボクは首をかしげた。
「兄さん?」
「……」
 問いかけに応えないまま、兄は数歩歩いて、もう一つのベッドに腰を下ろしているボクの目の前に立った。
 革と鋼で作られた鎧手を取り、そこに手にしたカップをのせる。
 ……いらないって、ことなのかな?
 内心がっかりしかけたボクは、次の瞬間硬直した。
 
 鎧の頭を包む、機械鎧と生身の両腕。黒の上着をまとった胸。お日様色の髪。
 
 ───もし、今のボクに感覚があったなら、それは。
 
 硬くて、柔らかくて。
 小さくて、大きくて。
 冷たくて、暖かくて。
 
 バレンタインの抱擁。
 それは、母と同じで。……母とは違って。
 
 
 声が聞こえる。
「……ありがとな、アルフォンス。……大好きだよ」
 
 奇跡的に落とさなかったカップをそっとテーブルに置いて、ボクもゆっくりと兄の身体を抱きしめた。
「ボクも。大好きだよ、兄さん」
 それは、記憶と同じ台詞。記憶とは、違う台詞。
 
 くすり、と兄が笑った。
「中尉がくれたの流用しちまったな。『義理』よりタチ悪ぃ?」
「いいの。ちゃんと気持ちと言葉が伴ってるんだから」
「そうかな」
「そうだよ」
「そうか」
「うん」
 
 今のボクに、感覚はない。掘り起こす記憶も、もうずっと遠い。
 本当のところ、あれだけ求めた母の姿すらも、ボクという存在の中からは薄れ始めている。
 
 でも、兄さんの姿は見えるから。
 でも、兄さんの声は聞こえるから。
 でも、兄さんの存在は、感じられるから。
 
 ───だからボクは、ここにいる。
 
「……兄さん」
「ん?」
「大好き」
「……」
 ごつん。返事の変わりに兜の後ろを殴られた。本当に、照れ屋なんだから。
 
 それでも手を離さない兄を抱く鋼の腕に、ボクは少しだけ力をこめた。
 
 
 
fin.

バレンタインです。んなもの鋼世界にあるんかいという突っ込みはさておき、バレンタインネタなんです。
なのに。どうしてこんなに薄暗く……。

書こうと思い立ったのが2/14 20:00過ぎ。さすがに当日中は無理でした。
タイトル、悩んだあげくに何のひねりもないものに。いつもないって説も。ほっとけよこんちくしょう(逆ギレ)
でも、今までので一番アルエドらしい気がするんですが、どうでしょう。

2004.02.15