『雪のある日常』 |
「痛むかい?」 聞こえてきた柔らかい声に、黙って首を振った。 直後、そんなことをしても、この位置では彼には見えないことに気づく。 なぜなら、ここは。 「マリア?」 ……いえ、大丈夫です……隊長」 ここは、彼の背中の上、なのだから。 全く不覚としか言いようがなかった。 白銀の大地ロシアに生まれた自分が、戦火をくぐり抜けてきた戦士である自分が。 ―――雪に、足をとられて転倒するなんて。 「まあ、そういうこともあるさ」 そう言って彼は、のほほんと笑う。男性にしては少し高めの、心地よい響き。 「いくら冬だといっても、このあたりじゃ気温はそう低くはならないからね。半分融けた雪なんて、滑りやすくて当たり前さ」 「隊長……お気持ちは有り難いのですが、これはやはり私の注意不足です」 彼とふたり、事務局から頼まれた買い物をすませての帰り道。 ふと目に入ったあるものに気をとられた状態で、昨晩降った雪が通りの装飾レンガに薄く積もっている、その上を歩いてしまった。 表面をつるつるに磨き上げたレンガは、それでなくとも滑りやすい。さらに、彼の言うとおり、融けかかった雪は潤滑剤としては最高の性能を誇る。 荷物を道にぶちまけることは、なんとか回避した。 ぶざまに尻餅をつくことも、気づいて手を差し伸べてくれた彼のおかげでまぬがれた。 ただ、バランスを崩した瞬間に左の足首に加わった無理な力、これだけは避けられなかった。 「私だって、ちゃんと危険性を知っていました。なのに不用意に歩いてしまった……油断している証拠です」 「確かに、気をつけるに越したことはないけど……」 肩の向こうで、彼は苦笑したようだった。 「そんなに力まなくてもいいよ、マリア。幸い、君の足も軽い捻挫ですんだし、荷物も無事だったしね。被害を最小限に押さえているあたり、さすがはマリアだ」 「……そうやって、私を甘やかさないでください」 押し出した自分の声は、わずかに震えていたように思う。 たぶん、彼にも伝わっただろう。 だが、 「甘やかす? どうして?」 彼の口調は、全く変化を見せなかった。 「隊長だって、よくご存知でしょう。戦場では、わずかなミスが命取りになる……これがもし、戦場であったのなら、取り返しのつかないことになっていたかもしれません」 そう、昔……あの雪の大地で、あの人を失ったときのように。 わずかな沈黙のあと。 「でも、ここは戦場じゃない」 肩越しに聞こえてきた声は、いっそ暢気とも思えるほどに、変わることがなかった。 「君たちが守った、平和な日常だ」 女とはいえ、己より大きな体格の人間。そして、たくさんの荷物。 それだけのものを抱えているというのに、彼の足取りはしっかりとしていた。 黙り込む自分をどう思っているのだろう。彼もまた黙ったまま、歩みを進めていく。 「……君は、紅蘭の発明が、一度も壊れることなく動いているところ、想像できるかい?」 その問いは、投げかけられたのも唐突なら、内容もまた唐突だった。 「マリア?」 今度の沈黙は、先ほどまでとは意味が違った。単純に、驚いたせいだ。 「マリア? もしかして寝てる?」 「寝てません」 振り返ってこようとする頭を押さえて、無理やり前を向かせる。あ痛、とかいう声が聞こえたが、それは無視した。 紅蘭の発明。……彼女には悪いが、その言葉で浮かぶのは、『爆発』。 きちんと動けば確かに便利だろうという物、何がどう意味があるのかわからないような代物、彼女の作る道具は多種にわたるが、きまって最後は爆発するのだ。そして、その被害を、彼はほぼ一手に引き受けているといっても過言ではないはず。 「で、どうかな?」 「……想像できません。紅蘭には悪いのですが」 「はは、だろうね……正直言って、俺もそうだし」 さすがに彼の苦笑にも、苦味の成分が多く含まれていた。 「でもね、実際はちゃんとあるんだよ。……わかるかい?」 笑いをおさめた彼の声は、思いのほか真剣だった。なので、こちらも真剣に記憶をたどる。 帝劇に、帝撃にある、壊れずに動きつづけているもの……。 考えること、しばし。 「……あ」 「そう、キネマトロン。そして、霊子甲冑だ」 「『失敗は成功の友や』……紅蘭の口癖だけど」 歩きながら、彼は半ばつぶやくように続ける。 「そんなこと言っている余裕なんかないようなものを、紅蘭はいくつも作ってくれている。それだけじゃない。機械は日々の整備が命だ。それを、黙々と続けてくれている……本人は『好きだから』って言っているけどね、それでもその負担は相当なものなんだろうと思うよ」 毎日、何時間も地下にこもっている紅蘭。 自分だってそれに気づいていた。けれど、彼女は機械好きだから、と、当たり前のように思っていた。 でも。それだけではないのだ。 ささいな設計ミスも、わずかな整備ミスも許されない……仲間たちの命にかかわるものと、彼女はずっと向き合いつづけている。 「だからね、彼女が失敗しながら何かを作っている姿が見られるのは、俺には平和の証のように思えるんだ」 失敗しても、次があるさ。そう笑って言える光景。 「……そうですね」 「君も同じだよ、マリア」 気づくと、立ち止まった彼が、半分だけ首をめぐらせて、こちらを見ていた。 「雪で転んだのなら、起き上がればいい。次に雪道を歩くとき、ちょっと気をつければいい……それだけだ。それだけでいいのが、君たちの……君の掴んだ平和だ」 あたたかい。 彼の眼差しが、言葉が、背中が。 許されるだろうか。このぬくもりに、すがりたいと思うことを。今は。今だけは。 ちょっとだけごめん、という声に我にかえった。 正面に向き直った彼が、抱えた荷物をゆすり上げる。 「ありがとうございます、隊長。私なんかに手を貸してくださるばかりか、そんなにも気を配っていただいて……」 再び歩き出した背中に頭をさげた。見えないとわかってはいたけれど、そうせずにはいられなかった。 「別にお礼なんて言われることしていないよ。それより早く帰ってきちんと手当てしないと。……ほら、ちゃんと掴まって。ちょっと急ぐぞ」 帰ってきた声は、若干早口になっていた。 言われたとおり掴まると、彼は本当に歩む速度を上げる。慌てて掴んだ手に力をこめた。 「なあ、マリア」 もうひとつ先の角を曲がると帝劇が見えてくる、その頃になって、歩みをゆるめた彼がぽつりと言った。 「『私なんか』って言うのはやめようよ。俺は……君だから、もっと頼りにしてほしいし、頼りにしたい」 彼は今度は振り向かなかった。でも、背中の上からはよく見えてしまった。 短く刈られた髪の向こうの―――赤く染まった耳。 「本当は……こうやって、君が手を借りてくれるのだって、嬉しいんだ」 今、もしここに姿見があったら。きっと自分は別人のように見えるだろう。 何故なら今、自分は耳どころか上から下まで真っ赤だろうから。 口をつぐみ、また彼が早足になる。まだ少しだけ赤いまま。 帝劇は、もうすぐ。彼が、みんなの隊長に戻るのは、もうすぐ。 ……脳裏に浮かぶのは、見かけてしまった、光景。この怪我の原因。 頬寄せ合う恋人たちの姿。 思考がふわふわと漂いかけている。これはきっと、急激に上がりすぎた体温のせい。 帰り着けば、この熱も消える。だから、今だけ。そう……今だけ。 そっと、彼の背中に頬をよせる。 ―――かしゃり、という音が、薄暗くなり始めた通りに響いた。 それから1週間、午後のお茶請けが割れ煎餅だった理由を、私と彼だけが知っている。 |
fin. |
お待たせしました(平伏低頭) 日記で言っていた放置プレイだったブツです。1年以上前の文章はやっぱり気になりますね。あちこち手入れました。 実はコレ企画モノだったんです。突発企画「それぞれの『おんぶ』」(笑) つーコトで他んトコのふたりもおいおいアップします。 しかし、サクラものは何故か放置プレイからの復帰ばかりな気がする(苦笑) |
2003.04.10 |